御祭神と御神徳、御由緒について >>
2014年01月01日

神社のご案内

與賀神社の御祭神と御神徳
主祭神  
与止日女神(よどひめのかみ)
〔=豊玉姫命(とよたまひめのみこと)〕  海の神、神武天皇の祖母
    
配祀神 
八幡神 彦火々出見命(ひこほほでみのみこと) 山の神、豊玉姫命の夫
住吉神 綿津見命(わたつみのみこと) 海の神 
乙宮神 宗像三女神(むなかたさんじょしん) 海の神
印鑰神 天児屋根命(あめのこやね) 祝詞の神様   
応神天皇(おうじんてんのう) 八幡大神、武門の神様
菅原道真公(すがわらみちざねこう) 学問の神様

御神徳 
豊玉姫命は神武天皇の祖母、海神の娘で龍宮城のお姫様です。海の神、山の神、水の神として広く信仰され、安産の神様です。また、武門の神様、学問・祝詞の神様が祀られており、鎮護国家・安産育児・交通安全・学問武道・殖産開運などにご神威あらたかです。

與賀神社の由緒
欽明天皇二十五年(564年)に勅願造立され、鎌倉時代は「与賀庄鎮守宮」で、建暦二年(1212年)北条義時が社殿を再興、寛元3年(1245年)執権北条経時が勅により祭祀の礼式を定めたと伝えられています。
ついで、建長三年(1251年)には与賀郷の地頭であった大宰少弐資能安穏のため洪鐘一口が寄進され、永正十年(1513年)には神階一位に進められました。
室町後期に、太宰府長官であった少弐政資公は山口の大内氏に追われ佐嘉に落ち延びて来て、文明十四年(1482年)に現在の赤松町龍泰寺一帯にあった父教頼の旧館を開き与賀城を築き、当神社を鬼門の鎮守として崇敬し社殿を再興、楼門を造立し神事を修飾した。
その後、少弐氏時代から高木氏、竜造寺氏、鍋島氏にかけては、与賀郷の宗廟として領主・藩主を始め一般士民の崇敬厚く、特に鍋島氏は佐賀城の鎮守、各代の産土神社として深く尊崇され、数々の寄進をなされた。
 
鎌倉時代から江戸時代までは、現在の佐賀市西与賀町・東与賀町を含めた与賀荘一円、即ち佐賀城の南部・西部・北西部の地域の総鎮守宮であった。旧社格は大正14年に列せられた県社である。
鍋島藩政時代には、神事として旧与賀郷の注連元(くめもと)行列をはじめ流鏑馬、連歌、管弦等特殊なものがあった。そのなごりとして、佐賀神楽(かぐら)、獅子舞を現在伝承している。

境内社
◇佐賀恵比須神社 
・御祭神 恵比須神像・大国主神像(えびすのかみ、おおくにぬしのかみ)
明治37年に地元の有志が兵庫県の西宮神社におもむき恵比須・大国主の御分霊を戴き祀ったのが始まり。
・十日恵比須大祭  
1月9、10日の初えびす大祭は百福開運・商売繁盛・家内安全を願う参拝者で大いに賑わう。


  
◇粟島・佐太神社
・粟島神社 御祭神 少彦名命(すくなひこなのみこと)
婦人の疾病守護の神として信仰されている。
・佐太神社 御祭神 佐太大神(さたのおおかみ)
熱病平癒の神として信仰さえている。
・例祭 四月三日 
御婦人の疾病守護・熱病平癒の神として多くの御婦人たちが参列される。

◇少弐神社
・御祭神 少弐政資公(しょうにまさすけこう)
大宰府の長官だった少弐政資公は、山口の大内氏と争って佐賀に落ち延び、先考少弐教頼公が築いていた與賀城(現在の赤松町龍泰寺一帯)を1482年に復して居城となし、当神社を鬼門の鎮守と崇め社殿を修復し神事を修飾した。現在国重要文化財である朱塗楼門はこの時のものと言われている。
佐賀の中世史は竜造寺・鍋島氏らで始まるが、それ以前少弐氏は肥前守護職であって、竜造寺氏らは土着武士として少弐氏の配下にあった。守護職として少弐氏は当神社に多大の功績を残されており、昭和27年重要文化財楼門解体修理落成を記念し、與賀神社再興・郷土開発の守護神として、少弐政資公を祀り現在に至る。
・少弐祭5月30日



◇宝壽森稲荷神社 
・御祭神 宇迦之御魂神(うかのみたまのみこと)
230年位前から祭られている。石祠に「正一位宝寿稲荷大明神安永き庚子六月二六日」と刻印あり。
・初午祭 旧初午の日、夏祭 旧6月8日。

◇天満神社   
・御祭神 菅原道真公(すがわらみちざねこう)
学問の神様。石造の祠で天神像を納めてある。祠には執行天神と刻印ある。  


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